ゆうりん家

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24部屋目:青春ブタ野郎は個人を個人と定義できるか

こんばんは、ゆーりんちーです。

 

今、こんなライトノベルを読んでいます。

 

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青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』

 

遠くから電気羊が睨んでそうなタイトルですね。

 

今季アニメでやっているのですが、最初はあまり観る気が無かったんですよ。タイトルだけだとなんだこれって感じでしたから。でも評判が良かったので、ちょっと1話を再生してみたんです。そしたらね、思ったより好きでした。

内容としてはラブコメにSFを織り込んだような感じ。枠組みとしてはハルヒが近いのか

な?もっとも、私は向こうをアニメでしか履修してないのですが。

 

私は元々ラブコメが好きなんです。麻衣先輩可愛い。扱っている題材も私の心をくすぐってきます。『思春期症候群』といって、本来ならあり得ないような事柄が日常に起こります。ここがSF要素ですね。あと、麻衣先輩が可愛い。さらにこれはアニメに重要なことですが、作画が安定している。そして麻衣先輩が可愛い。

 

さて、なんでこんな話をしたか。

別に、この作品を紹介したかったわけではありません。この本を読んでいてちょっと思い出したことがあったので、書いてみようかと思ったのです。

 

 

あれは何年前だったか。

当時の友人2人と後輩1人と共に、私は牡蠣小屋にいました。生牡蠣焼き牡蠣食べ放題。ああ……思い出したら行きたくなってきた……誰か、牡蠣食べに行こうな……

それなりに空いたジョッキと牡蠣の殻が溜まってきたとき、こんな話題が持ち上がりました。

 

『個人を個人たらしめるのは何か』

 

具体例として私を挙げるのであれば、

 

『ゆーりんちーをゆーりんちーたらしめるのは何か』

 

私が私であるための要素とはいったい何なのかという話です。

これは別に、性格や能力といった個性のことを言っているのではありません。もっと根本的な、存在証明の話。

 

ある人は『肉体』だと答えました。

細胞レベルまでのその肉体を持ってして、個人であると確定されると。

この答えには、いくつか疑問を投げる必要があります。例えば、クローンはどうなのか。全く同じ顔や体を持った人間のコピーは、それもまた同じ存在として認識されるのか。これは人によって意見が分かれそうですね。

人体欠損はどうか。私が腕を失ったとすると、それは肉体的に元の私とは違っています。ですが、それで私がゆーりんちーでなくなるということはないでしょう。

 

またある人は『精神』だと答えました。

これは難しいですね。精神には実態が存在しません。なのでこういう例を考えてみましょう。

たまにこういう話を聞きませんか?

「あの人はある日を境に人が変わったようになってしまった」

何か大きな事件があったときに、その影響で性格が歪んでしまう。温厚だった人が、凶暴になってしまう。明るくて人当たりの良かった人が、急に閉じこもってしまう。こういう事例は実際にあることでしょう。

この場合、明らかにその人は"以前のその人"ではなくなっています。ですが、"変わったその人"ではあるでしょう。その人でなくなったかというと、そうは言えないと私は思います。その変化の良し悪しは置いておいて、"新しいその人"ではあるのですから。

 

さて、この問いに対しての私の答えはこうでした。

『記憶』

個人を個人たらしめているのは記憶だと言いました。そうすると、やはりこういう反論が飛んできます。

「記憶喪失になるとその人はその人じゃなくなるの?」

これは違います。私の言う「記憶」というのは、本人のものだけではないからです。本人が持つ自身の記憶、周りが持つその人の記憶、物体に残されたその人の記録、この3つを指して「記憶」と言っています。記憶を脳の記録と定義するなら、先ほどの答えは記憶→記録としてもいいですね。

「私はゆーりんちーである」という記憶。「あの人はゆーりんちーである」という記憶。「この人がゆーりんちーである」という記録。この3つが合わさって個人が明瞭になっているのです。逆に言うと、この3つのどれかが失われていくと、個人という存在は揺らいでいきます。

例えば先に挙げた記憶喪失。自分が誰だかわからない。この状態では、周りの教えや物証から自分を認識するでしょう。しかし、不安は大きいはず。自分が揺らぐ。

逆に、周りの人が自分を見失った場合。自分では自分を認識しているのに、周りの人が誰一人として自分を知らない。自信を持てなくなるでしょう。個人が揺らぐ。

そのどちらもなら?自分で自分がわからない。周りも自分を知らない。必死に探して探して、ついに自分の写真と名前を発見した。その安堵はいかほどか。しかしそれだけ。存在が揺らぐ。

では、3つ全てが存在しないとき、いったいどうなるのでしょう。その人はその人と言えるのでしょうか。これは認識の問題なので、実際の真実という意味ではその人なのでしょう。しかし、認識が何も存在しないその状況でも、個人が個人であるという真実に意味があるのでしょうか。

 

 

こんな感じの話題なのでした。

いや、ほんと思い出したから書いてみただけなんですよ。こんな感じの話題って結構好きなのです。思考実験とかね。お酒を飲みながらだと楽しい。素面でこんな話はしたくないや。

 

この記事で何か伝えたいことがあるとしたら、「牡蠣って美味しいよね。誰か食べに行こうぜ」ということです。

 

以上、そういう話でした。